1980年代のATARIに日本人イラストレーターがいた
黒川氏:
本日はお時間をいただきまして,ありがとうございます。
イラストレーター 木村ひろ氏
木村氏:
「E.T.」のイラストを描いてから30年が経ちます。まさか,こういう形で再浮上してくるとは思ってもみませんでした。世の中は本当に分からないものですね(笑)。
黒川氏:
私がFacebookに「ATARI GAME OVER」における「E.T.」発見の件を書き込んだところ,「実はあのイラストを描いたのは,私の叔父さんです」と言うメッセージをいただきまして。当時のアメリカで,しかもATARIで,日本人がそういうお仕事をされていたということ自体に驚いたんですよ。そこで,お話をうかがいたいと思いました。
木村氏:
分かりました。
黒川氏:
最初に,木村さんの経歴を教えていただきたいのですが,そもそもどのような経緯で,ATARIで仕事をすることになったのでしょうか。
木村氏:
僕は,カルフォルニア州ロサンゼルスのArt Center College of Design(アート・センター・カレッジ・オブ・デザイン)という美大で,イラストレーションを学びました。卒業する少し前の1981年にATARIのアートディレクターが大学に来て,イラストレーション課の学生の作品を見て,僕を社員にと選んでくれたのがきっかけです。
黒川氏:
なるほど,スカウトされたわけですか。
木村氏:
はい。そして,その年の3月に入社しました。
黒川氏:
それは,ATARI本社にですか?
Yar's Revenge
ATARIの栄枯盛衰を内側から見ていた日本人がいた。日本版「ATARI GAME OVER」プロデューサー黒川氏による,木村ひろ氏へのインタビューを掲載木村氏:
そうです。カルフォルニア州,サニーベール市のATARI本社です。そして,1983 年12月の終わりまで,ほぼ3年間勤務しました。その間に「E.T.」のパッケージデザインを手がけましたが,入社して最初に任されたパッケージデザインは,映画「ATARI GAME OVER」にも出てくる「Yar's Revenge(ヤーズリベンジ)」でした。
黒川氏:
ハエが復讐するという,あのパッケージですか。開発者のハワード(ハワード・スコット・ウォーショウ)さん自身が,一番ヒットしたと話すタイトルですよね。
木村氏:
ATARIのオリジナルゲームとして,ですね。取扱い説明書用に一枚描いていますが,あの映画「ATARI GAME OVER」を観て驚いたのは,「Yar's Revenge」が,そんなにビッグセール(100万本超え)だったのか,と言うことです(笑)。
黒川氏:
ご存じなかったんですか。
木村氏:
ええ。僕らデザインチームには,一切そういう情報が入ってきませんでした。だから,「ATARI GAME OVER」を観て当時の反響に驚きましたよ。
黒川氏:
それ以外で,何かデザインを手掛けたソフトはありますか?
ATARIの栄枯盛衰を内側から見ていた日本人がいた。日本版「ATARI GAME OVER」プロデューサー黒川氏による,木村ひろ氏へのインタビューを掲載
Pac-Man
ATARIの栄枯盛衰を内側から見ていた日本人がいた。日本版「ATARI GAME OVER」プロデューサー黒川氏による,木村ひろ氏へのインタビューを掲載
Crazy Climber
木村氏:
ナムコの「Pac-Man」シリーズです。これはアダプテーション(版権移植作品)として,ATARIのゲームで一番売れたものだと最近知りました。繰り返しになりますが,デザインチームには全然そういう販売情報が入ってきませんでしたから。
黒川氏:
ほかに,その3年間で印象に残るお仕事はありますか?
木村氏:
日本の開発メーカーから買った(移植した)ソフトも含めて,「Krull」だとか,「JAUST」「Pengo」「Crazy Climber」「Centipede」「Millipede」「Berserk」などですね。ほかに,発売されてないゲームもあります。
黒川氏:
「Yar's Revenge」以降,ATARIがリリースしたそれらのパッケージやカートリッジに貼られたイラストは,すべて木村さんの手によるものなんですか。
木村氏:
いえ,全部ではありません。あの当時,ATARIのイラストレーション課には,僕が入社したときには3人,最も多いときで6人がいましたから。そのメンバーでいろいろ分担していたんですよ。
黒川氏:
なるほど。ちなみに,ATARIが経営不振で分割されたあとはどのように?
木村氏:
僕はその前に退社しています。
黒川氏:
なぜ,お辞めになられたのでしょう。結果はともかく,当時,急成長した会社でしたし,先々も可能性があったのでは,と思うのですが。
木村氏:
「ATARI GAME OVER」の中にもありましたが,当時,ATARIの収益計画が投資家の予想を大幅に下回ってしまったんです。そのため,アメリカではビデオゲームは,もう浸透し尽くしたということが言われていました。あとになって,それは任天堂の「ドンキーコング」の登場で覆されましたが。
黒川氏:
そうでしたね。
ATARIデザインルームでの当時の木村氏
木村氏:
ともかく,そんな経営的に悪い情報が入ってきて,売上げも大きく下方修正されたんです。当時,僕達の部署や取扱い説明書のライター,デザイナー,プロダクション,イラストレーションをすべて含めると,一番多い時で60数名いました。それが,いきなり僕ひとりになってしまったんです。
黒川氏:
それは,みんなが見切りをつけて転職してしまったと?
木村氏:
いやいやいや(笑)。解雇されたんですよ。
黒川氏:
ああ,レイオフですか。
木村氏:
しかも,オーバーナイト・レイオフなんです。
黒川氏:
一夜にしてひとりに……。
木村氏:
ええ。本当に「一時間で机のものをまとめて出て行ってくれ」と。
黒川氏:
いやはや,すごいですね。
木村氏:
その後,僕ひとりで一年ほど働いたと思うのですが,毎回のように同じようなモノを求められることに疲れて。それで,自分が本当にやりたいのは,フリーランスのイラストレーションであると思い,ATARIを退職しました。それから数か月でニューヨークに渡りまして,フリーランスとして今日に至っています。
黒川氏:
当時のアメリカという地で,日本人がフリーランスとしてイラストの仕事で活躍されていたというのも素晴らしいですね。
木村氏:
ありがとうございます。あと,アメリカの切手のイラストも描いたんですよ。おそらく通常の切手としては,日本人で初めてだったのではと思います。手紙が来たときに,自分が描いた切手が貼ってあるというのは楽しかったです(笑)。
黒川氏:
それは楽しいですし,嬉しくもなりますよね(笑)。
ところで,ATARIのお話に戻るのですが,働き始めたころの(ATARI社内の)雰囲気は,どのような感じだったのですか?
木村氏:
一言で言えば,「イケイケ」ですね(笑)。売上げや収益か,どちらかは分からないのですが,入社して最初の1年目が10億ドル(※1981年当時の価値で約2200億円)でしたから。
黒川氏:
10億ドル……。
木村氏:
2年目が20億ドルで。3年目,僕がいた最後の年に,5億ドルの赤字が出たんですよ。
黒川氏:
最後は赤字としても,それまではソフトを出せば出すだけ売れるみたいな状況だったでしょうし,木村さんの給料もすごく良かったのではないですか?
木村氏:
新卒の学生でしたから,それはなかったです。
黒川氏:
なるほど。先ほど周りの雰囲気がイケイケとおっしゃっていましたが,まさに社内は沸き立っていたと思います。その当時,ATARIで働いていることは,周りから見てステータスになっていたのでしょうか。
木村氏:
こういう事を言うとバカにされそうですけど,僕は自分の仕事にしか興味がなかったんですよ。ですからパーティーなどに行ったとき,「どこで仕事をしているの?」と聞かれて,「ATARIだ」と言ったら,みんなが「ええー!」と驚くんで,「そうか,ATARIって悪くないんだ」と(笑)。
黒川氏:
言われて初めて気が付いたわけですか。
木村氏:
ええ。世間知らずで,これも今日に至るんですけども。
黒川氏:
本当にイラストレーションのことに集中されていた,ということですね(笑)。